2013年10月31日木曜日

【超訳】 仏教における「マインド」を理解する: ダライ・ラマ




※ こちらは、"MindScience: An East-West Dialogue" に記述されている内容を 私自身の理解のために一部和訳しているものです。※





1 The Buddhist Concept of Mind: The Dalai Lama
ここでは、仏教におけるマインドのコンセプトについてお話し、さらにマインドをトレーニングするために仏教徒が行っているテクニックを紹介したいと思います。これらのテクニックは、基本的には悟りに向かうために実践されるわけですが、健康などの日常的な生活レベルでの効果も期待されることでしょう。
私は、宗教家や科学者、過激な実利主義者など、様々な背景を持つ人々に接し、マインドのコンセプト自体を信じていない人もいることを知りました。そして、仏教というものがこうった宗教と実利主義を結ぶ架け橋になることができるのではないか…と信じるようになりました。その理由は、仏教はどちらにも存在しないからです。実利主義者の視点からは、信念や信仰じみた点がある仏教は宗教のように思われがちですが、仏教は神や創造主というものを受け入れず、個人の可能性と力を拠り所としています。したがって宗教家の視点に立つと、仏教は無神論でもある。仏教は、宗教にも実利主義にも、どちらにも分類されません。
さて、仏教における最大の特徴は、「信」、そして「献身」の考え方です。これは、仏教における三宝、仏(Buddha)・法(Dharma)・僧(Sangha)において繰り返し出てくるコンセプトです。仏教では、この「法」(= "The Way")に身を浸すことで 「信」と「献身」を理解することに重きを置いています。
「法」が重要であるというコンセプトは、私たちが権威があると認める人物に対して持つ思考をひも解くと理解できます。私たちは、偉大な人物を、有名であるから、裕福であるから、あるいは美しい容姿を持つからという理由によって権威を認めるのではありません。その人物の立ち居振る舞いや言動から、特定の領域に対する専門性を信頼して安心だと感じるから尊敬するのです。
これと同様に、私たちが仏陀を権威づけし、信頼できる師として尊敬する理由は、彼の教えである四聖諦を分析し、それが真であると感じるからです。これらの内容を生き、感じ、経験して納得がいくからこそ、仏陀の教えを信じるのです。
この 四聖諦を理解するためには、まずは「2つの真実」を知ることから始める必要があります。これは、仏教においての土台となる概念で、この世には2種類の現実があるという考え方です。1つは、経験的で、感覚知覚レベルにおけるもの。そこに「在る」ことが明白の現実。原因と結果、言葉としてラベルが付けられるもので、ゆえに正当に理解され得るものです。一方、2つ目はそれよりも深いレベルにあります。仏教学者や心理学者たちが超越したもの、超自然的な現実と定義するもの。言葉で表すなら「空」と呼ぶものです。
この超自然的な現実(=「空」)というものを理解していく上で、仏教徒たちは仏陀の教えをそのまま信じるのではなく、自分自身の理解を深めるガイドとして利用しています。仏陀の教えを絶対的なものとして受け入れるのではいけません。その内容を自らが吟味し、考えることにこそ意味があるのです。それゆえ、仏教的な書物には現実を表す様々なレベルの考え方や言葉があります。それも、あらゆる方面から現実を理解するプロセスにおいて出てきたコンセプトなのです。
経典にも、仏陀による前述の趣旨に関連した言葉が残されています。彼が説いた内容を権威があるものとしてそのまま受け入れてはならない。まるで金細工職人が、金の質感や純度を試すように、様々な視点から吟味されるべきものであると述べられています。私たちは、この内容を自分自身の人生に当てはめ、それが果たして信じるに値するものなのか、経験して理解し、自分として受け入れるかを決めるプロセスを踏むのです。
「信」と「献身」の要素が色濃く反映されているのが、仏教における様々な行(Tantra=実践)です。ここでも、行、つまり実践の内容は超自然的な現実を理解するためにあるもので、これを理解せずして行を始めることさえもできません。仏教においては何事も自分自身で理解し納得することが、思想の上でも。そして、実践の上でも重要なことなのです。
さて、仏教の根幹をなす思想の一つに「縁起」と呼ばれるものがあります。これは、「原因に縁って結果が起きる」という因果論で、どのような出来事や物質にも原因があって存在する、原因なしに物事は存在しないという考え方です。この思想に立つとき、何が原因として定義されるのかを理解する必要があります。仏典には2つの原因が記されており、1つは外部的、物理的な出来事、2つ目は内なる要因、つまり意識のレベルにあるものです。
仏教において、これほどに原因を理解することが重要である理由は、これらの原因が私たちの痛みや喜びといった感情をもたらし、人生を左右する出来事となるからです。私たちの内側にあるものだけでなく、外部の出来事も原因となり得る。ゆえに、外部の物質的な世界にも目を向ける必要があるわけです。
私たちが感じる痛みや喜びが、個人の主観的に根ざした精神的な要因からもたらされるのは明らかです。しかし、これらの主観が外部の出来事や物質世界にどのように作用するのか、それが大きな謎です。仏教徒たちは、これまでに 内面の感覚やマインドの影響を全く受けない物質世界が果たして独立して存在するのか?という議論を何度も行ってきました。当然ですが、このような哲学的な問いに対しては多様な解釈があります。一部には、もともと外部の出来事など一切存在しない。物質さえも本来は存在しないのだという説もあります。全ては、私たちのマインドの中だけで起こっているのだという考え方です。しかし、この考えはやや極端であるように思えます。哲学的にも、また概念的にも外部の物質的な世界と、マインドの世界の2つが存在するのだと考えるほうが分かり易いでしょう。
さて、私たちのマインドに存在するものと外部における物質的世界の経験を踏まえると、その2つには「原因と結果」というつながりがあることは明白です。そして、マインドの世界が永遠であるのと同様に、物質世界にも繰り返される連続性が存在します。
一部の仏典は、この連続性を遡って極微の粒子の世界へと私たちを誘います。全ての物質は、宇宙の粒子によって構成されているという定義です。そして、この前提に立つならば、これらの粒子が一体どのように互いに作用し、私たちの中にある感情や感覚、つまり痛みや喜びをもたらしているのか…それが次の問いです。仏教徒たちは、これを「業」(Karma)の概念を用いて説明します。目に見えない領域における活動とその影響。これが粒子に影響を与え、様々な出来事や状況の表面化をもたらすのです。
この見えない活動、或いは業(Karma=活動を意味します)の波は、私たちのマインドに直接作用し、実際に行動を起こそうとする気持ちを駆りたてます。従って、マインドがどのように動いているのか、およびマインドの役割を理解することは、私たち人間の経験、マインドと物質の関係を知る上では不可欠なのです。私たちは、自分の経験から マインドの状態が日々の活動や物質世界における出来事に大きく影響を与えることを知っています。穏やかで揺るがないマインドを持つ人は、立ち居振る舞いや態度もそのようになります。つまり、常に穏やかで冷静、平和な感覚を持っていれば、心をかき乱すような出来事が起こったとしても、ほんの一部にしか作用しない、影響しないということです。一方、常に落ち着かないマインドの状態である人の場合、どんなに好ましい環境の中に身を置いたとしても、穏やかで平和な感覚を創り出すことは難しいでしょう。従って、精神を良い状態に保つということが、私たちの喜びや幸せ、健康を創り出すために不可欠であることがおわかりでしょう。
まとめると、マインドとは何か、そしてマインドの役割を知ることが重要である理由は2つあります。その1つは、私たちのマインドと業(Karma)が密接な関係にあること、そして2つ目は私たちのマインドが苦しみや喜びをもたらす上で大きな役割を果たしているからです。さて、それでは 一体マインドとは如何なる存在で、どのような特徴を持つものなのでしょうか?
仏教の経典(Sutra)にも、そして行(Tantra)の中でもマインドについては多くが語られています。特に行の中ではマインドと意識について、その微細な部分まで捉えています。経典(Sutra)の中では、マインドの異なるステートと関連した生理的状態についてはそれほど述べられていません。しかし、行(Tantra)では、私たちのマインドの状態、肉体に流れるエネルギー(気)とそのチャネル、そして生理的な状態との関連についても詳細に記されており、また瞑想やヨガなどの作法を行うことで、異なる意識の状態を意図的に作りだし、意識レベルをコントロールする方法についても触れています。
行の定義において、マインドはとても純粋なものとされ、この大元のマインドの状態は「純粋なる光」と呼ばれています。 私たちを苦しめる様々な感情:欲望、嫌悪、嫉妬などは、マインドの状態、コンディションの結果です。これらは、マインドが持つ質から派生するものではなく浄化できます。マインドの「純粋なる光」が苦しみを生む感情や思考によって抑制されてしまうサイクルのことを、輪廻(Samsara)と言います。しかし、適切な瞑想や作法を習得することで、私たちは「純粋なる光」を体験し、苦しみをもたらす感情や思考から自由になることが可能なのです。
仏教においては、束縛や自由をもたらすのはマインドであり、「純粋なる光」の状態をマインドが維持できているのかが課題です。仏教徒たちが、様々な瞑想を行うのはこの光の状態を保つことで マインドが持つ可能性を最大限に高めるためです。そのため、「純粋なる光」の状態がどのようなものなのか。それを理解することが大変重要となります。
さて、私たちが認識しているレベルでは、日々の生活の中で肉体が置かれている物理的な環境とマインドは密接に関わっていると認識できます。私たちのマインドの状態、悲観や喜び、どのようなものであっても健康に影響し、同時に肉体的な状態はマインドに影響します。仏教の行に関する書物には、特定のエネルギーが肉体に入り込むと記述されており、これは私が考えるに神経生物学者が第二の脳と呼んでいるもの、すなわち免疫システムです。これらのエネルギーセンターは、私たちの感情のアップダウンを司る場所です。これらのエネルギーセンターを瞑想やヨガによって制御し、マインドや肉体を健康にするための活動が行われているわけです。例えば、適切な瞑想法を実践することで呼吸や体温も調整することが可能となります。
肉体とマインドの関係をみていくと、通常の状態での瞑想が行えるのと同時に、夢を見ている状態の時にも瞑想の訓練は可能です。肉体とマインドが密接にある状態から、意識を切り離し、より微細な状態を維持する。つまり、私たちはマインドを完全に肉体から切り離すことも可能なのです。例えば、寝ている間にマインドを肉体から切り離し、肉体があるとできない仕事をすることも可能です。報酬は得られないでしょうけれども・・・
このように、肉体とマインドは常に補完し合っています。最近では、科学者たちが 精神的、肉体的な健康を維持することを目的として、マインドと肉体の関係について様々な研究を行っています。私はこの事実を大変嬉しく思います。私の旧友のベンソン博士はチベットにおいて仏教徒たちの研究を数年行っていますし、チェコでも研究が進んでいます。現時点の状況をみるだけでも、今後やるべきことは沢山あるように思います。沢山の研究が進み、新しいインサイトが得られるたびに、きっと私たちのマインドも肉体も、そして物理的にも、精神的にもますます健やかになることでしょう。現代の研究者たちは、仏教を宗教ではなくマインドの科学であるとしています。私は、これには一理あると感じています。

0 件のコメント:

コメントを投稿